言語観の移り変わり


以前の投稿で,Sapir (1921)の内容について投稿した.

前回はSapir と Chomsky の比較を行い両者の違いを見たが,今回はそれとは別に気になった点があったのでまとめてみたい.

それはSapir (1921)を読んでいた際に見つけた次の一節である.

Among the most primitive peoples of aboriginal America, the Athabaskan tribes of the Mackenzie River speak languages in which such words seem to be nearly or entirely absent, while they are used freely enough in languages as sophisticated as English and German. Such an instance shows how little the essential nature of speech is concerned with the mere imitation of things.
(Sapir, 1921)
アメリカの先住民の中で最も原始的な人々であるマッケンジー川のアサバスカン族は、その言語においてそのような語がほとんど、またはまったく存在しないようであるが、英語やドイツ語のように洗練された言語では十分に使用されている。このような例は、言語の本質が単なる物事の模倣とはほとんど関係がないことを示している。
(ChatGPT 訳)

注目したいのは,”languages as sophisticated as English and German”という部分である.

この内容は言語の本質という重要な内容に言及している部分であるが,その中で英語やドイツ語を”洗練された”言語として形容している.裏を返せば,アサバスカン族の言語は洗練されていない(もしくは少なくとも英語,ドイツ語等より比較的劣る)という風に受け取ることも可能である.

この主張は2024 年の現在には到底受け入れられないものであるが,当時の感覚としてはそういった価値観もあったのであろう.

時代が変われば価値観は当然変わるが,ここまで明確に文章として記されているとやはり衝撃的である.

参考文献

  • Sapir, E. (1921). An introduction to the study of speech. Language, 1, 15.

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