この1週間、胸に赤い花のシンボルをつけている人を多く見た。
気になったのでイギリス人にあの花はなんなのかと聞いてみた。その花はけしの花であり、イギリスでは第一次世界大戦が11月11日に終結したので戦没者追悼の意味を込めて、11月11日前後にけしの花のシンボルをつけるそうだ。もう少し詳しく知りたいと思い調べてみたら興味深い記事に出会った。
複雑な「けしの花」 英国の戦没者追悼シンボルをつける人とつけない人
この記事によれば、けしの花は今では少し複雑な意味を持つようである。ここで私が思い出すのは日本の靖国神社問題である。日本でも終戦記念日が近くなると首相は靖国神社に参拝するのかと毎年騒がれている。こういった問題に対して賛成・反対を述べるのはここでは避けることとする。ここで述べたいのは、この話から私が感じる日本と英国の違いである。
私がここで感じたのは集合と個の違いである。西欧と日本の間でのindividualityについての議論は多くなされてきた。この議論に通じるものを感じたのだ。
日本では個人がこういったシンボルを身につけて終戦記念日に追悼することはまずない。やはり追悼というと靖国参拝となる。それはつまり個人が1つの場所に集合することを意味する。そして、物質的なものではない、御霊というスピリチュアルなものに自身の思念を通じて追悼の意を表する。1つの集合知に皆で触れ合うことになる。
対して、イギリスでは個人が自身の身体を用いて追悼の意を評しているように感じる。物資的なものを身につけ、個人が1つの個体として活動している。そこには結果としての集合はあっても、目的としての集合はない。皆が追悼した結果、方向が同じになるだけであり、決して方向を合わせて追悼しているわけではない。
ここに大きな違いを感じる。ただ、この違いは正直思いつきのようなものなので、まだまだ考察が必要である。いつかちゃんと考察したい。