日本には「森羅万象」という言葉がある。
森羅は木々が際限なく並ぶ様子であり、万象はあらゆる現象を指す。際限のない世界に存在している、ものや現象の全てということだ。つまり、森羅万象とは、この世の全てのもの・現象だと理解していいだろう。本来は仏教用語らしい。
そして、この仏教用語にもう一つ私が好きな言葉がある。「阿吽」である。現代では「阿吽の呼吸」のような用例をしばしば見かけるがこれは本来の意味ではない。この阿吽という言葉は言語学的にも思想的にも大変興味深いものである。今回はこの「阿吽」について話したい。
阿吽は阿と吽に分解できる。/a/と/m(hum)/である。これは梵語(サンスクリット語)の梵字(悉曇字)の最初の音と最後の音である。つまり、仏教を生んだ言語の始めの音と終わりの音なのである。このことから、阿吽というのはこの世界の始まりと終わりを表す言葉だったのだ。私はこの思想がとても好きなのだ。この世界は言葉で始まり言葉で終わるのだ。まさにLanguage is everythingである。
また、これは日本語の五十音順の最初と最後の音に当たるが、おそらく偶然ではない。この五十音順の配列は悉曇の研究から生まれたという悉曇起源説が有力であるからだ。つまり、根本の思想は同じなのである。日本人話者はこの「あ」で始まり「ん」で終わる50音の中で生きてきたのである。この50音が森羅万象を表すのだ。これもまたLanguage is everythingである。
話は戻るが、冒頭の「阿吽の呼吸」はどのように現代の意味になったのだろうか。それはこの阿と吽が対となる存在であることに由来する。
狛犬というものがある。狛犬は常に2体のペアにあっている。この狛犬をよく見ると必ず片方は口を開け、もう片方は口を閉じている。口を開けている方は阿形と呼ばれ、閉じているのは吽形と呼ばれる。この口は「あ」と「ん」を表しているのである。
つまり、始まりと終わりを司っているのだ。このように常に対となっている関係がとても良い関係のように思われ、「阿吽の呼吸」となったわけである。
そうして見ると、この狛犬は言語が形を持ったもののようにも感じられ、愛おしくも恐ろしく感じてしまうものである。