今回の投稿では、私が言語学を学び最終的にどんなことを目標にしているかを書きたいと思う。

私は言語について考えることが好きである。特に歴史言語学は面白い。前回も記した通り、「言語は我々の全てである」と思っている。その言語を歴史的に考察する歴史言語学はある意味で、我々人類自身を考察しているように思う。

例を2つあげよう。

1つ目は意味変化である。身近な例で言えば日本語の「ありがとう」という言葉だ。この言葉は平安時代頃までは「有難し」つまり「ある事が難しい =なかなかお目にかかれない」という意味であった。それが「なかなかお目にかかれない→感謝するに値する」と転じて現代の感謝の意の表現となった。ここに、日本人の「希少性には価値が生まれるという気付き」が見られる。つまり、言語の意味変化を通じて日本人の歴史を垣間見れるのである。

もう1つ、より重要な例をあげよう。

英語の動詞には原形・過去形・過去分詞形という屈折がある。中学英語で覚えたtake-took-takenやsee-saw-seenというあれである。しかし、未来の文を表現する時にはwill (shall)やbe going to という別の言葉を付け加えて表現する。未来屈折というものは存在しないのだ。時間を過去・現在・未来と1つの直線のように認識しているのなら、未来屈折があってもおかしくはないはずである。これは未来というものを現在や過去とは違うものとして捉えていた可能性を示唆している。つまり、いかに人類が「時間」という概念を構築してきたのかを考えるヒントになり得る。とても興味深いものである。

このように言語の歴史というのは人類の歴史とほぼイコールのように私には思われるのだ。

さて、我々人類は過去から多くを学び新しいものを作り、より効率的・安定的な未来を求めて進化してきた。過去から未来を創造してきたのである。21世紀を迎え、その速度は指数関数的に早まっている。もちろん、未だ未解明なもの・研究不足なものもあるが、歴史言語学においても言語の過去を学んだのである。そこで私が考えたいのは「未来の言語」だ。人類は新しい言語を作れないだろうか?ということである。言語の本質は「情報」であると考える。そして我々は今、IT革命つまり情報技術革命の世界に生きている。それは情報を扱うための新しい技術を我々にもたらす。新しい技術が可能になるのなら新しい言語も可能になるのではないかと思わずにはいられない。

私がここでいう新しい言語とは、既存の日本語や英語という諸言語に加わるようなものではない。全く新しい形態の言語である。

フランスの神学者マラン・メルセンヌは「普遍的調和」にて普遍言語というものを構想している。

その発話が自然な意義をもち 、それゆえ笑っている時は喜んでいることを 、泣いている時は悲しいことを理解するように 、あらゆる人がその意義を学ぶことなく発音だけで他の人の考えを理解する言語を考案することができるなら 、この言語は考えうるかぎり最良のものだろう 。というのも 、その言語は 、天使のあいだでのように精神の思考が人間のあいだで直に通じ合うことがありうるなら 、その思考と同じ印象をすべての聞き手に与えるだろうからである 。

私はこのメルセンヌの構想する普遍言語に新しい技術を使って挑戦してみたいのである。さらに、その言語は発話によらない、つまり音声に頼ることない全く新しい言語になると考えている。なぜなら情報技術に文字通り革命が起きているからである。つまり、私なりに言うのなら

あらゆる人がその意義を学ぶことなく意志だけで他の人の考えを理解する言語を考案することができるなら 、この言語は考えうるかぎり最良のものだろう 。

となる。

この言語に取り組むことが私が言語学を学んでやりたいことである。

 

参考文献
語源由来辞典
言語起原論の系譜
hellog 英語史ブログ #2208英語の動詞に未来形の屈折がないのはなぜか?

1件のコメント

  1. ピンバック: 理想言語の構築は可能だと考える理由。Part 1 「拡張の時代」 | SY-Linguistics

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