前回の投稿において人類は「拡張」という技術を用いて発展してきたという私の考えを書いた。

今回はその続きとして「自動化の時代」について話したいと思う。まず前回の続きである、人類が拡張という技術を獲得したところから遡って見ていきたい。
前回の投稿を簡単にまとめると、拡張の優れた点は2つ。「1,自身の進化を不要にすること」と「2,共有可能なこと」であり、その鍵は「外部装置」だということを述べた。

さて、この外部装置が共有可能という点は人類にひとつの面白い変化を起こしたと私は思うのだ。それは個体の代替可能性をあげたということである。前回述べたとおり、この拡張という行為は個人の身体に依存しない。重要なのはその外部装置であり、その外部装置の使用法・作成法を伝播できるのなら個体はどの個体でもかまわないということになる。逆に、代替できない個体というのは特権的な存在になり得る。これは現代でも、優秀に思われる人材は代替可能性が低いために重宝されるのと同じである。俗にいうオリジナリティだ。

外部装置が重要であるなら、その外部装置を改良していくことが種としての生存確率を高めていったことは確実であろう。しかし、その外部装置の使用者は誰でも良いのだから究極的には人類でなくても構わないのだ。自らが働かなくとも富を築けるように改良できるなら、こんなに楽なことはない。さらに、そこには人間が介在しないためにヒューマンエラーが起こり得ず、延々と作業が繰り返されるというメリットがある。これが自動化の始まりなのだと私は考える。労働力を人類から別の何かに変えるのである。こうして生まれてくるのが水時計や水車などの自然の運動エネルギーを利用した自動化された装置である。水車を用いることにより、自身の身体を動かさずとも製粉作業が可能となった。実際に古代ギリシア人アンティパトロスはこんな詩を残している。

粉挽きの少女たちよ、製粉機から手をどけよ。たとえ鶏鳴が夜明けを告げても、眠り続けよ。デーメーテールがお前たちの手作業をニュンペーに課し、それらが車輪の上に飛び乗って車軸を回させるのだから。それを取り巻く歯車と共に、車軸はニシロス島産石臼の中空の錘も回転させる。苦役なしに大地の産物を享受できるようになれば、ふたたび黄金時代が訪れるだろう。

 

注・・・デーメーテールとはギリシャ神話に登場する豊穣を司る神であり、ニュンペーは山や川に宿る下級精霊である。豊穣神が人類に課した仕事を代わりに精霊が行ってくれるということだ。

 

 

しかし、自動化という技術を人類は獲得したが、意外にも水車などの普及は中世以降にやっと本格的になる。理由の1つには地理的な要因があるだろう。当然ながら、水が無ければ水車は動かない。しかし、もう1つ大きな理由は経済的なものである。人類の歴史には「奴隷」というものが常に存在していた。特権階級者からすれば財を築けるのなら、その財を築くための労働力は自然エネルギーでも奴隷でも構わないのだ。奴隷が豊富にいるのなら、新しい技術に投資を行わなくとも、奴隷を活用すれば良い。同じ量の財を築くためのコストが奴隷の方が低かったのである。
そうだとすれば、特権階級が勢いを失いマグナカルタに代表される封建制社会が誕生した中世に、水車が普及したのにも合点がいくだろう。奴隷が減ってしまったので、自動化の技術を用いて生産性を向上させる方がコストが低くなったのである(もちろん、この時には自動化の技術だけでなく、拡張の技術力向上も大いに試みられたであろう)。
このように、常に大きな技術革新をもたらすのは人的リソースの不足なのだ。そして、賃金の高騰による人的リソース不足が起きた18世紀後半のイギリスから産業革命が始まる。その前世紀、17世紀に科学革命を経たあとの産業革命は人類の生産能力を恐ろしいほどに押し上げた。大分岐である。この時代から人類の生産性は飛躍的に上がり、それに支えられて人口も爆発的に増加した。そうして欲望が欲望を呼ぶ社会、資本主義社会が時代のメインストリームとなる。チェコの経済学者、トーマス・セドラチェクの言葉を引用しよう。

欲望は満たされることを望まない。欲望は増殖することを望む

 

 

私はこの飛躍的な生産性向上は、産業革命のエンジンとなった蒸気機関があらゆるものを拡張し、自動化したからだと考える。蒸気機関によって我々の腕力・脚力は飛躍的に拡張され、また蒸気機関を用いた「工場」の出現は水源がない場所でも自動化を実現させた。

この産業革命の延長線上に立っているのが我々21世紀を生きる人類である。そして我々は今、拡張と自動化のひとつの終着点を目にしようとしている。それがAI いわゆる人工知能である。

私はAIを脳の拡張と自動化の結果なのだと認識している。AI以前はあくまで身体性の拡張と自動化であった。爪を鋭くするための拡張や、労働を人間以外にさせるための自動化である。しかし、脳の拡張と自動化が可能となってしまった今、我々は人体の5体全ての拡張と自動化を可能にしてしまったのである。それはつまり、今まで唯一他では代替が出来なかった人類の能力、思考能力が代替可能になったということだ。

それゆえに、こういった不安を持つ人々が現れた。「私の仕事はAIに奪われてしまうのだろうか?」「AIは人類を滅ぼすのか?」「人類はAIに(文字通り)取って代わられるのか」

私はここでAI脅威論を論じるつもりはない。しかし、こういった恐怖や焦りを持つ人々が現れていることは確かだろう。

恐怖を感じた人間は防衛策を考える。では、その防衛策とは何か?その一つの答えは、今までの拡張の技術・自動化の技術との融合である。また当然、資本主義社会に生きる我々の中には、より便利な暮らしを求め続ける人も多くいるだろう。欲望は満たされることを望まないのだから。そうした要求に応えるために、いよいよ進化を自社開発するのだ。

こうして融合の時代が幕をあけるのだと私は考えている。

次回はこの融合の時代について論じたいと思う。

 

余談だが、今回の記事は想定よりかなり長くなってしまった。ここまで読んで頂いたあなたに謝辞を申し上げたい。

1件のコメント

  1. ピンバック: 理想言語の構築は可能だと考える理由。Part 3 「融合の時代」 | SY-Linguistics

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